HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲6 Jugend

3 残り火


夜には音大の黒木教授が訪ねて来た。だが、一度学籍を失った者に対しての処分は変えられないという大学側の言い分に怒りが収まらない様子だった。
「私の助力が足りなくて、申し訳ありませんでした」
詫びる教授の顔には苦悩の色が浮かんでいた。
「黒木さんのせいじゃありませんよ。僕は最初から、あの理事長のやり方は気に入らなかったです」
ハンスが不快そうに言う。つい先日にも、理事長は、有住財閥の令嬢である彩香の評価について、手心を加えて欲しいと金を包んで来た。ハンスは腹を立て、成績は金では買えないのだと足蹴にしたばかりだった。今は井倉が同席していたので、黙っていたが、黒木もそれを承知していたので苦々しく思っていた。

「理事長には、音楽の事も教育の事もよくわかっとらんのです」
教授はげんなりしていた。
「多分、あの頭の中には、お金の事しか詰まっていないのでしょう」
ハンスも吐き捨てるように言った。井倉は、二人の師の間で俯き、身を縮めていた。
「でも、誤解が解ければ復学出来るんじゃないかしら?」
宥めるように美樹が言った。理事長の言い分としては、授業料未納だけでも問題なのに、井倉の父が犯罪に手を染め、その息子である井倉自身も素行の良くない者達と付き合いがある。故に、大学の品位や名誉を汚すと決め付けていた。しかし、理事長が名指す父も息子も共に被害者だ。それは井倉本人の話でも、ジョンの報告からも裏付けられている。美樹の言うように、それらの誤解が解け、授業料を納入すれば、当然の権利として、井倉は大学に復学出来る筈だ。
「すみません。僕のためにこんな……」
井倉は何度も頭を下げて言った。鬼の黒木と恐れられている教授が、自分のために一生懸命になってくれている事に彼は感動していた。しかも教授は井倉の顔を見ると、最初に無事で良かったと言ってくれたのだ。

――そんなになる前に何故もっと早く私に相談しなかった?

ハンスには直接命を救ってもらった恩もあり、美樹にはやさしい言葉を掛けてもらった。しかも、家財の一切を失ってしまった井倉に、ここに住むように勧めてくれた。井倉にとってそれ以上の事はなかった。いくら感謝しても足りない程、井倉の胸は熱く震えていた。
「ありがとうございます。僕、きっとこのご恩をお返しします」
深く頭を下げる彼の肩にそっと手を乗せ、美樹はやさしく微笑んだ。
「いいのよ。そんなに恐縮しなくても……。ハンスも喜んでいるのだから……」
「でも……」
「美樹の言う通りです。僕は喜んでいるですよ。君のような良い拾いものをして……」
ハンスは繰り返し、彼についてそう言った。
「拾いものって……」
確かに自分は拾われた者ではあった。が、ハンスは拾ったものは自分のものだから、勝手な行動は許さないと言うのだ。始めのうちは驚きや感謝でいっぱいだった井倉だったが、それは次第に一抹の不安へと変わって行った。


翌日の朝。ハンスはいつも通り、トレーニングに出掛けた。そして、宮坂学園高校を覗いた。今日も生徒達は校庭で体育祭の練習を行っていた。
同じように隊列を組み、同じ歩幅で歩く。一人一人の体格も体力も関係なく同じ動作を反復している生徒達。
(意味がないのに……)
疑問に思いながらも、彼はまた、その隊列を眺めていた。
「あれ? あそこにいるの、平河君だ」
見知った顔を見つけて、ハンスは嬉しそうに周囲を見つめた。
(直人もいる)
同じように見えていた集団の中に見つけた知り合いだけがさっと生気を帯びた。
(でも、直人は音楽の先生なのに、どうしてあそこにいるんだろう?)
その直人も皆と同じ色のトレーニングウェアを着込んでいる。
(ここでは、何もかも括られている。詩も数字も音楽も……)
空は澄んで眩しかった。その空ではためく旗。遥か向こうには流れる雲と飛行機の機体が光って見えた。

「武本……」
ふと視線を戻すと行進する列の先頭にあの男がいた。中等部の生徒達を引率している。その列の中には桑原アキラもいた。
「何だ。知ってる人がたくさんいる」
ハンスは列に紛れていた知り合いを数えて満足した。
(龍一、若井、白神、それに武蔵野……。他にはいなかったかな?)
その時、頭上から大型ヘリコプターのローター音が響いた。そして、大きな影が周囲を覆った。瞬間、校庭にいた者達の個性を奪った。教師も生徒も皆一様に影を纏った人形のように見えた。ローター音はいつまでも響いていた。それは大型の輸送用ヘリで、海の近くまで飛ぶと、大きく旋回して再び陸に戻って来た。

「闇の風みたい……」
ハンスが呟く。が、それはただの影に過ぎなかった。その影が離れる寸前、武本がこちらを見た。一瞬、視線がぶつかる。ハンスは高い塀の上に座っていた。不審者として通報されても文句の言えない場所である。しかし、武本は黙認した。そんな彼にハンスは微笑した。それを見て、武本は僅かに唇の端を上げた。が、それ以上の反応は控えたようだ。ハンスは塀から降りると家に向かって駆け出した。


10時になると、家に飴井がやって来て、井倉の父の会社の状況や家族の所在を詳細に説明した。
「それじゃ、今、電話してみたら?」
美樹が言った。井倉は早速家族に連絡をした。
「おれ? おれは今、大学の先生のお宅でお世話になって……。え? それなら安心だって? どういう意味だよ? 無責任にも程があるだろ? おれのアパートにまで借金取りが来て、家財道具全部持ってかれてんだぞ。そうだよ。おれの大事なピアノまで……!」
声が震えた。
「そうだよ。おれの夢だったピアノまで……。いくら親だからって子どもの夢を奪う権利なんかないだろ? その話ならもう決着が付いてるんだから……。家には決して迷惑なんか掛けないって……。え? 知らないって? でも、実際そいつらがおれのアパートまで来てるんだ。いや、それだけじゃない。バイト先や大家さんにまで迷惑を掛けて……。そうだよ。それで、おれ……おれは……」
声が詰まった。

「井倉君、電話代わってください」
ハンスは、そう言うと井倉から受話器を取り上げて言った。
「はじめまして。僕、井倉君の指導をしているハンス・D・バウアーです。彼は僕の家で大切に育てます。彼はとてもいい子です。才能もあります。こんなことで死なせたくありません。そうです。僕が助けました。それでここへ連れて来たのです。会社ならいくら潰れてもまたやり直すことができますけど、人間は一度潰れたらおしまいです。だから、僕は彼を潰すのは許しません。彼は僕のところにいるのが一番いいです」
「先生……」
電話を終えたハンスに井倉は涙ぐみながら言った。
「もう大丈夫です。話はつけました。君はここで暮らしながらピアノを練習したらいいです」
「でも……」
「心配しないで、井倉君。ご家族のことは飴井さんが何とかしてくれるから……」
美樹も言った。
「え? おい、勝手にそんなこと約束されても……」
飴井は困惑していたが美樹もハンスも強引だった。


午後、美樹と井倉は、音楽教室に来る子ども達のおやつを買いに街へ出掛けた。その間にハンスはルドルフと打ち合わせをした。
「でもさ、本当に発火能力者なの? 単にライターの扱いが上手いだけの放火犯じゃないの?」
リビングの席に着いていたハンスが訊いた。
「いや。その件では有力な目撃者がいる」
「目撃? なら、どうして捕まらないの?」
「犯人が能力者だからだ」
「何か堂々巡りしてる」
テーブルの上にあった積み木を並べていたハンスが、指先で触れるとそれらはばらばらと倒れて行った。

「目撃者は、風見龍一。高校生だ」
「あの子?」
風見の事は、ハンスも知っていた。昨年、結城直人から紹介された若い能力者だ。
「その父親が経営していた病院が半年前に原因不明の出火に因って焼失している」
「それで、龍一の両親は?」
「焼死している」
「それで、あの子……」

――ぼくは産婦人科医になりたいんです。赤ちゃんが好きだし、父もそうだったので……

「あんなに悲しい目をしてたのか」
ハンスは細い三日月型の積み木を掴んだ。光沢のある緑色に照明の光が反射している。
「捜索は今夜から始める。メンバーは2班に分かれ、それぞれのエリアを担当する。1班は能力者3名で構成する。A班は俺とマイケル、そしてロバート。B班はおまえと結城、それに風見」
「でも、ルドは能力者じゃないでしょう?」
「今回の指揮は俺が行う。能力者も人間だ。鉛を喰らえばダメージは負う筈だ」
「庵みたいな奴でなければね」
ハンスが皮肉に笑う。

「だから、チームで行動するんだ」
「ところで、ロバートって誰?」
「ロバート・グラス。海兵隊に所属するアメリカ人だ」
ルドルフが写真を提示する。そこには体格の良い黒人の姿があった。
「能力者なの?」
「そうだ」
「お魚さんの仲間?」
ルドルフが頷く。
「なるほどね。B班ってのが気に入らないけど、メンバーが直人と龍一ならいいや」
「ただし、発見した時点で勝手な行動はせず、互いに連絡を取る事。スタンドプレイは厳禁だ」
「どうして?」
「下手に刺激して能力を使われたら大惨事だ。今回のミッションは特に慎重に運ばなければならない」
「うん。街中で炎を撒き散らされたらたまらないものね。わかった」


そして、午後。3時を過ぎると最初の子どもがやって来た。
「ハロー、ハンス!」
「遥。今日も君が1番です」
ハンスが笑う。元気のいい男の子は幼稚園の年長組だと言う。
「やった! おれ家からずっと走ってきたんだ」
遥はうれしそうに歩き回ると井倉の前に来て言った。
「この人、だれ?」
「井倉優介君です。しばらくここにいるので仲良くしてやってくださいね」
ハンスに紹介されて、井倉は戸惑いながらも挨拶した。
「よろしくね、遥君」
井倉は笑い掛けたが、子どもはもう、勝手にタンバリンやカスタネットなどが入っている箱を運んで遊び出している。

「先生……」
井倉は、すぐにレッスンが始まるのかと思っていたので、さり気なくハンスの方を見た。が、彼も一緒になって箱の中から鈴やトライアングルなどを引っ張り出している。その時、また別の子どもとその母親が入って来て挨拶した。
「ハロー! ハンス」
「真希ちゃん、咲紀ちゃん、こんにちは!」
女の子は2年生で、母親は妹らしい赤ちゃんを抱いていた。ハンスはにこにことその子や赤ん坊に話し掛けている。そこにまた、数人の子ども達と母親達がやって来た。

「それじゃ、そろそろ始めましょうか」
ハンスがピアノの席に着くと、皆が取り囲むように陣取った。そして、ハンスが伴奏し、全員で歌ったり、ゲームをしたりした。合奏もした。井倉はピアノは個人レッスンをするものと思い込んでいたので、呆気に取られた。
そのうち、一人一人がピアノの前に行くと練習して来た曲を弾いて聞かせた。ハンスは、それに対して上手く弾けたところを褒め、難しい指使いなどはその場でしっかりと練習させた。そして、何度か練習して弾けるようになると、もう一度全体を弾かせる。そして、周りの子ども達も一緒になって歌ったり鈴やタンバリンでリズムを取ったりもした。
(こんなレッスン……)
井倉は信じられないといった顔でそんな彼らの様子を眺めていた。

「それじゃ、次は井倉君、ここに来て」
不意にハンスが呼んだ。
「メヌエットを弾いてください。暗譜で」
「え? メヌエットって……」
「通称『バッハのメヌエット』って言われている曲ですよ。本当はペツォールトの曲ですけどね」
急に言われて井倉は戸惑い、途中で音を間違えて止まってしまった。すると、すかさず真希が楽譜を広げ、彼が間違えた箇所を指摘した。
「そうですね。真希ちゃんが正解です。では、もう一度そこから弾いてみてください」
ハンスが言うと、子ども達が一斉にエールを送った。
「井倉のお兄ちゃん、がんばって!」
「だいじょうぶ。こんどはきっとうまく弾けるよ」
皆から言われて、井倉は照れくさそうに頭を掻いた。そして、曲を弾き始めた。今度はミスなく弾く事が出来た。

「やった!」
「お兄ちゃんすごーい!」
子ども達が歓声を上げる。
「うまいんだねえ」
「アンコール!」
誰かが叫ぶと他の子達も次々とアンコールだと叫んだ。
「どうぞ、弾いてください」
ハンスが促す。井倉は頷くと、もう一度メヌエットを弾いた。ハンスもタンバリンを持っている。楽器を持てる子はそれぞれに叩いたり振ったりして音を出し、赤ちゃんも声を出して身体を揺する。母親達も楽しそうにハミングする。井倉は、弾いているうちに夢中になり、胸が熱くなった。

そのレッスンは3時間にも及んだが、誰も帰る者はいなかった。指導をしているのはハンスだったが、レッスンを受けているというより、皆が音楽で遊んでいるような感覚だった。互いに褒めながらも、もっと良くなる方法を模索し、切磋琢磨していく。そして、親しみと連帯感を持ち、誰もが心の底から音楽を楽しんでいる。
(こんな感覚……。初めてだ)
井倉の中で、何かが変わろうとしていた。
「じゃあ、井倉の兄ちゃん。またね」
遥が言う。
「バイバイ!」
ハイタッチして来る小さな手に触れた時、井倉の中で何かが弾けた
(何だろう? 今……)
それは、燻り続けていた残り火。そこにもう一度赤い炎が灯ったという感覚に他ならなかった。

そして、レッスンの時間は終わり、誰もいなくなったリビングで、井倉は独り、涙を流していた。
「どうしましたか? みんなもう帰ってしまいましたよ」
そんな井倉に、ハンスが声を掛けた。
「ああ、先生、本当に……。僕は生きていてよかったです。僕はもう死にません。約束します。もう決して命を粗末にしないと……」
「井倉君」
「だから、先生。お願いします。僕にピアノを教えてください」
井倉は深く頭を下げた。そんな井倉の肩に手を置いてハンスが微笑する。
「もちろんです。君は僕が育てます。真の魂を持った音楽家に……」


そして、夜。ハンスは出掛け、ルドルフが集めた捜索メンバーと合流した。
そこには遅れて来ると連絡して来た直人以外の者達が集結していた。そこで、ルドルフが新入りのロバートを皆に紹介した。
「俺がロバート・グラスだ。よろしくな」
身長2メートルを超える巨漢の彼は癖のある茶髪で、髭も伸び放題になっていた。
「何か熊みたい」
アキラが言った。
「おお。ここにもいるじゃないか。カワイイのが。俺は日本のマンガとカワイイが好きなんだ」
野太い声で彼が言う。
「ふうん。カワイイのがね」
ハンスが呆れる。
「お、おまえもカワイイの部類だな。なあ、俺もそっちのチームにしてくれないか?」
ルドルフに視線を送るが、彼は却下した。

「ところで、何故、子どもが来てる?」
ルドルフがアキラを見て訊いた。
「すみません。キラちゃんが、どうしても一緒に行くって付いて来ちゃったんです」
困ったように言い訳する龍一。
「何よ、それ。あんただって承知したじゃない。それに、わたしは龍一よりずっと能力強いんだし、いざって時には絶対役に立つんだから……」
アキラが主張する。
「それに、結城先生が少し遅れるって事だから、わたしが入れば穴埋めになるでしょ?」
「でも、子どもを危険な目に合わせるのはちょっと……」
マイケルが尻込みする。
「男の子と女の子……。大丈夫。僕がちゃんと面倒見るよ」
ハンスが言った。
「面倒見るって、そんなに簡単な事じゃないぞ」
ルドルフが釘を刺す。
「わかってる。でも、見つけるだけなら問題ないでしょ? 勝手な行動は慎めと言ったのはルドじゃないか」
ハンスはアキラも一緒に連れて行くと言って譲らなかった。

「あっちにはカワイイが3人。この人選は不公平だぜ」
ロバートが不平を言う。
「おい、熊。3人ってどういう意味だよ? 今、僕も頭数に入れてただろう?」
ハンスが文句を付ける。
「ああ。当然だろ? おまえ、ちっちゃくてカワイイじゃないか。うちのジョンと同じくらいかな?」
「僕はお魚さんとは違う」
膨れたようにハンスが言う。
「そうだな。おまえの方がカワイイもんな」
ロバートが笑う。
「ルド、こいつを拘束してもいい?」
「やめておけ。春の嵐が起きて被害を出す訳には行かないからな」
「嵐?」
訝しそうにハンスが見上げる。
「彼、能力も桁違いなんだ」
マイケルがすまなそうに伝える。

「桁違いって?」
「ハリケーン」
ハンスに訊かれて、そう答えるマイケルの表情には焦りの色が浮かんでいる。
「そんなに凄い能力が使えるんですか?」
それまで黙っていた龍一が尋ねる。
「まあな」
ロバートは落ち着いていたが、マイケルはまるで自分が悪い事でもしたように小さくなって続けた。
「はっきり言って暴走系。だから、君達、あまりロバートを刺激しないでくれよ」
「暴走だって? 面白そうだね。どうしたら、そんな風になれるの?」
ハンスが訊いた。
「どうしたらと言われてもなあ。俺にもよくわからねえんだ」
頭を掻きながらロバートが笑う。

「そんなの、危なくないですか?」
龍一が懸念を示す。
「だから、いざという時じゃなければ、俺は能力は使わん」
「じゃ、どうするの?」
ハンスが訊いた。
「ま、俺は元々海兵隊で訓練を積んでる。体力勝負で十分よ」
「やっぱ、熊みたい」
豪快に笑うロバートを見て、アキラがぼそりと呟いた。
「とにかく、時間がない。早速捜索に出掛けよう」
ルドルフが促す。
「わかった。それじゃ、僕は両手に花ということで、男の子と女の子をもらって行くよ」
ハンスは、そう言うと二人を連れて歩き出す。
「いいか? くれぐれも連絡を怠るな」
ルドルフはその後ろ姿に告げると、自分も能力者二人と共に夜の街に紛れた。